自我と生命の気味悪さ
休日の朝、ふと人生が長いと感じた。
私は子どものころはファミコンに夢中になり、大人になってからも人や欲望に振り回されながら生きてきた。そんな一方で、ここ数年のAIの発展には圧倒されている。
振り返れば43年という時間は、それなりに長い。
これからAIがどこまで発展するのか、社会がどう変わるのか。それを見ることには楽しみもある。
ただ、それとは別に、人生そのものが妙に長く感じることがある。
自分がいてもいなくても世の中は回る。
私がいなくなっても、朝は来るし、人は働き、子どもは生まれ、技術は進歩していく。
後世から見れば、私が生きている21世紀前半という時代も、
「AIが急速に発達し、産業や政治、文化に大きな影響を与えた時代」
そんな数行にまとめられるのだろう。
けれど、当事者にとって人生は100%である。
私はこの身体から外に出ることができない。
何十億人もの人間が同時に生きているのに、私が直接感じられるのは、この身体の痛み、この目に映る景色、この記憶、この欲望だけだ。
世界全体から見れば、私はほとんど何者でもない。
それなのに、私にとって世界は常に「私の視点」からしか存在しない。
そこが妙に気味が悪い。
眠っている間は意識が消える。
それでも朝になれば、昨日までの記憶を持った「私」がまた始まる。
身体が物理的に存在し、脳が働き続ける限り、この自我という現象は何度でも立ち上がってくる。
人生に意味があるのかないのか、という話以前に、
「なぜ私は、この視点として存在し続けるのか」
ということ自体が、不思議であり、不気味でもある。
昨日、花火をした。
花火の下には、虫に群がる蟻がたくさんいた。
そのすぐ上では火薬が爆発し、大きな音と光が広がっている。
それでも蟻は、餌を運び、仲間と行き来し、自分たちの営みを続けていた。
何世代も前の蟻も、おそらくほとんど同じように生きていた。
一匹一匹は死んでも、新しい蟻が生まれ、また餌を集める。
人類がファミコンから生成AIまで進んだ数十年間にも、その足元では蟻がずっと蟻をやっている。
一匹が死んでも、次の世代が生まれ、また同じように餌を運び、巣を維持する。
生命は、そんなふうに途切れず続いていく。
人間もまた、朝起きて、飯を食い、働き、何かに夢中になり、また眠る。
そして次の日には、再び「自分」として目を覚ます。
生命活動が続く限り、生き続ける。
その間、自分は何度でも「自分」として目を覚ます。
歴史から見れば一行にも満たない人生なのに、当事者にとっては最初から最後まで100%である。
世界にとっては小さな一人でも、自分にとっては、この人生から降りることはできない。
この矛盾のような感覚は、おそらくこれからも何度も考えると思う。
答えが欲しいわけではない。
ただ、
「存在しているということは、よく考えるとかなり気味が悪い」
という感覚だけは、忘れないように残しておきたい。
