ニーチェの永劫回帰と予定説――運命を肯定することの危うさ


はじめに

ニーチェの永劫回帰について考えていたところ、プロテスタントの予定説との共通点に気がついた。

永劫回帰とは、自分の人生が寸分違わず、永遠に繰り返されるという思想である。

喜びも苦しみも、成功も失敗も、すべて同じように繰り返される。

ニーチェは、そのような人生を何度でも生きたいと思えるか、と問いかけた。

最初は奇妙な思想に感じたが、考えているうちに、キリスト教の予定説を思い出した。

そして、二つの思想を比較するうちに、私はある疑問を抱くようになった。

変えられない運命を肯定しようとすることは、人間を幸福にするのだろうか。それとも、強烈な自己暗示によって、かえって人間を苦しめるのだろうか。

1. プロテスタントの予定説と永劫回帰

プロテスタントの一派であるカルヴァン派には、予定説という考え方がある。

人間が神に救済されるかどうかは、神によってあらかじめ決められており、人間の努力によってその選びを変えることはできない、という教義である。

しかし、それなら努力する意味はないのか。

そういうわけではない。信仰や日々の生活は、なお重要なものとされる。

一方、ニーチェの永劫回帰では、同じ人生が永遠に繰り返されると考える。

もし本当にそうなら、どれほど努力しても、次の人生で別の結果を得ることはできない。

それでも、ニーチェはその人生を肯定できるかと問う。

ここに私は、共通する構造を感じた。

変えられない運命を前提としながら、それでも懸命に生きることを求める。

もちろん、予定説は主として神による救済の決定を扱い、永劫回帰は人生の出来事そのものの反復を扱う。厳密には異なる思想である。

しかし、ニーチェは牧師の家庭に生まれ、キリスト教文化の中で育った人物でもある。

彼は「神は死んだ」と語り、神を前提としない生き方を模索した。

そう考えると、私には永劫回帰が、プロテスタントの予定説を神を必要としない時代に書き換えた思想のようにも見える。

これは歴史的な影響関係を証明するものではなく、あくまで私自身の解釈である。

それでも、両者が似た問題を抱えているように思えてならない。

2. なぜ運命を肯定しなければならないのか

ニーチェは、運命愛という考え方を重視した。

自分に与えられた運命を、ただ我慢して受け入れるのではなく、積極的に愛するという態度である。

人生を肯定したほうが精神衛生上よいということは、私にも理解できる。

嫌な出来事ばかりを思い返して生きるより、自分の人生によかった部分を見つけて生きるほうが、心は楽になるだろう。

しかし、私はここに危うさを感じる。

本当はよかったと思っていないことまで、よかったと思い込もうとしてしまうのではないか。

例えば、会議で誰かが発言したとする。

それほど素晴らしい意見とは思えないのに、周囲の人間が大げさに感心してみせる。

あるいは、楽しみにしていた娯楽にお金を使ったが、実際には期待外れだった。

それでも、せっかくお金を使ったのだから、楽しかった、満足した、と自分に言い聞かせる。

本当に満足しているのなら、わざわざ思い込む必要はない。

満足できなかったからこそ、自己暗示が必要になるのではないか。

これを人生全体にまで広げてしまうと、どうなるだろう。

失敗も、不幸も、理不尽な出来事も、すべてよかったのだと思い込もうとする。

私は、それが本当に人間を幸福にするのか疑問に感じる。

3. ニーチェ自身は何を考えていたのか

もっとも、ニーチェが単純に「不幸も幸福だと思い込め」と主張していたわけではない。

彼は、神や来世の救済に頼らず、この人生そのものを肯定することを目指した。

現実を美化するというより、現実に対する自分自身の姿勢を変えようとしたのだろう。

また、ニーチェが永劫回帰を宇宙の実際の仕組みとして考えていたのか、人生への問いとして提示したのかについても、解釈が分かれている。

私は、ニーチェ自身がどこまで自分の人生を肯定できていたのか分からない。

彼は優れた知識人でありながら、長年にわたって病気にも苦しんだ。

もしかすると、自分自身のために人生の肯定を追い求めたのかもしれない。

あるいは、苦しんでいる人間が人生を肯定できるように、その思想を考えたのかもしれない。

しかし、どちらも推測にすぎない。

ニーチェが何を意図していたかという問題と、その思想を受け入れた人間がどうなるかという問題は、分けて考える必要がある。

4. 私は同じ人生を繰り返したいとは思わない

もし、もう一度人生を送ることができるなら、私は違う道を選んでみたい。

別の仕事、別の経験、別の可能性。

もちろん、今より不幸になるなら嫌だ。

単に変化が欲しいというより、もっと幸福になれる人生を経験してみたいのである。

だからといって、今まで生きてきた人生のすべてを否定しているわけではない。

過去によかったことがあったとしても、次は違う経験をしたいと思うことはある。

楽しかった旅行でも、次は別の場所に行きたい。

それと同じではないだろうか。

一度経験した人生を肯定することと、同じ人生を永遠に繰り返したいと思うことは、別の問題である。

苦労した経験から何かを学ぶことはある。

しかし、学べたからといって、その苦労をもう一度経験したいとは限らない。

5. 「この体からは出られない」ということ

以前、私は自分という存在について考えたことがある。

自分はこの体を通じてしか世界を経験できない。

別の人間の意識に移って、その人生を生きることはできない。

この体、この時代、この人生から、自由に抜け出すことはできないのである。

この点では、永劫回帰と似た問題を感じる。

しかし、私はこう考えたい。

変えられないものがあることは認める。

だが、変えられるものまで諦める必要はない。

与えられた人生を生きることと、与えられた不幸を肯定することは違う。

嫌なことは嫌だと思ってよいし、改善できるなら改善したほうがよい。

6. 思想が人間を縛るとき

ここまで考えて、私は原理主義の問題にも思い至った。

宗教でも、政治思想でも、哲学でも、ある考え方に強く心酔することがある。

最初は、その思想によって自分の人生を豊かにしようとしていたはずである。

しかし、いつしか思想そのものを守ることが目的になってしまう。

現実と思想が矛盾したとき、思想のほうを疑うのではなく、自分の感覚や現実の解釈を無理に変えてしまう。

不幸なのに幸福だと言い聞かせる。

理不尽なのに、これも必要な試練だと考える。

苦しいのに、苦しみを肯定できない自分が未熟なのだと思い込む。

そうなれば、思想は人間を支えるものではなく、人間を縛るものになってしまう。

これはニーチェの思想に限った話ではない。

どれほど優れた思想であっても、それを絶対視すれば同じ危険が生じる。

人間のために思想があるのであって、思想のために人間があるのではない。

7. 運命を受け入れることと、愛することは違う

今回の考察を通じて、私が最も重要だと思ったのは、この区別である。

運命を受け入れることと、運命を愛することは違う。

自分がこの体に生まれ、この人生を歩んできたことは、変えようがない。

その事実は受け入れるしかない。

しかし、その人生で起きたすべての出来事を愛さなければならない理由はない。

失敗は失敗でよい。

嫌な経験は、嫌な経験だったと認めればよい。

そして、次は同じ失敗をしないようにすればよい。

もちろん、過去を肯定することで救われる人もいるだろう。それを否定する必要もない。

ただ、肯定できない人にまで、肯定することを求めるべきではない。

ニーチェ自身も、すべての人間に自己暗示を強制したわけではないだろう。

しかし、その思想を拡大解釈して心酔すれば、そうした危険は生じると思う。

おわりに

ニーチェの永劫回帰は、神を必要としない時代に、人間がどう人生を肯定するかを問う、壮大な思想だった。

私はそこに、プロテスタントの予定説との共通点を見た。

変えられない運命を前提としながら、それでも人間に積極的な生き方を求める。

その考え方には、確かに人を励ます力があるだろう。

しかし、人生の全肯定を理想とすることには、自己暗示に陥る危うさもあるのではないか。

人生は、無理に肯定しなくてもよい。

嫌なものは嫌だと認め、それでも、これからの人生を少しでもよくしようとする。

私には、そのほうが自然に思える。

変えられない運命は受け入れる。しかし、変えられる不幸まで肯定する必要はない。

そして何より、

運命を肯定する自由はあっても、運命を肯定する義務はない。

私は今のところ、そう考えている。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です