人間は、生きるために働かなければならないのか
――生存保障と自由な文明は両立できるのか

前回、私は人間の生存と文明へのアクセス権について考えた。
文明は、長い歴史の中で数えきれない人々が積み重ねてきた、人類共通の財産でもある。
ならば、人間はただ生きているというだけで、その恩恵を受ける権利があるのではないだろうか。
食料、住居、医療など、生きるために必要なものへのアクセスを、労働能力や経済的な成功だけで決める必要があるのだろうか。
しかし、ここで大きな疑問が生まれる。
「生きるために働く必要がなくなったら、誰が社会を支えるのか」
人間は、生活に困らなければ働かないのか

もし誰も働かなくなれば、食料は生産されず、物流は止まり、電気や水道も維持できなくなる。
文明へのアクセス権を認めても、その文明自体が維持できなくなれば意味がない。
だが、私はここで一つの前提を疑いたい。
人間は、本当に生活に追い詰められなければ働かない存在なのだろうか。
人間には好奇心がある。
何かを作りたい。知らないことを知りたい。自分の能力を試したい。
誰かの役に立ちたいという気持ちもある。

報酬がなくても、趣味や研究、創作に多くの時間を費やす人はいる。
生活のための労働から解放されれば、むしろ新しい活動に挑戦する人が増えるかもしれない。
もちろん、それだけですべての仕事を維持できるとは限らない。
しかし、人間は生存への恐怖だけで働く存在ではないはずだ。
参加する自由と、離脱する自由

人間は、必ずしも安全で楽な仕事ばかりを望むわけではない。
危険な仕事に挑戦する人もいる。
例えば軍隊に志願する人にも、収入だけでなく、使命感や冒険心、若い頃の好奇心からその道を選ぶ人がいるだろう。
大切なのは、仕事を選ぶ自由だけではない。
その仕事から離脱する自由も必要なのである。
人間の気持ちは変わる。
若い頃に夢中だった仕事が、年齢を重ねて苦痛になることもある。
健康や家庭の事情が変わることもある。
しかし現在の社会では、仕事を辞めることが生活の危機につながる。
住宅ローンがある。家族を養わなければならない。転職すれば収入が減るかもしれない。
そのため、不本意な仕事でも続けざるを得ない人がいる。
もし生存に必要な文明へのアクセスが保障されていれば、疲れたら休み、別の仕事に挑戦し、また戻ることもできる。
もちろん、責任ある仕事には契約や引き継ぎも必要だろう。
それでも、生活を失わずに仕事から離れられる社会は考えられる。
働く自由と、働かない自由。参加する自由と、離脱する自由。
その両方があって初めて、労働は自発的な活動に近づくのではないだろうか。
社会主義の歴史という問題

だが、ここまででは単なる理想論になってしまう。
歴史を振り返れば、社会主義を掲げた国々の中には、経済の停滞や制度の硬直化に苦しんだ国もある。
代表的なのが、かつてのソビエト連邦である。
計画経済には、生産や分配を国家が管理することによる問題があった。
もちろん、その失敗を単純に労働意欲だけの問題として説明することはできない。
しかし、過去の歴史から学ぶ必要はある。
ここで重要なのは、人間が文明の恩恵を受ける権利を認めることと、経済活動のすべてを国家が統制することは別だという点である。

生存に必要なものへのアクセスは保障する。
一方で、それを超える部分では、自由な経済活動や競争を残す。
より豊かな生活を望む人は働き、新しい技術を開発した人は報酬を得る。
自分の事業を始める自由もある。
つまり、
生存は競争から外すが、競争そのものは残す。
これが一つの鍵になるのではないだろうか。
誰もやりたがらない仕事はどうするのか

もちろん、社会には必要であっても希望者の少ない仕事がある。
ごみ処理、設備の保守、危険な場所での作業などだ。
こうした仕事を維持するために、人間を生活苦に追い込む必要があるのだろうか。
別の方法も考えられる。
必要な仕事には十分な報酬を与える。
AIや機械による自動化を進める。
教育や訓練を充実させ、複数の人が交代で担えるようにする。
一人が辞めても、別の人が引き継げる仕組みを作る。
もちろん、これだけであらゆる問題が解決するわけではない。
それでも、人間を追い詰める以外の方法で文明を維持できないか、考える価値はあるはずだ。
国際競争と安全保障という現実

そして、もう一つ大きな問題がある。
日本だけが文明へのアクセスを広く保障しても、世界の国々が同じ考え方で動くとは限らない。
経済競争は続く。
資源をめぐる対立もある。
軍事的な脅威もなくならない。
日本だけが生産力や競争力を失えば、その制度自体が維持できなくなるかもしれない。
だからこそ、生存に必要なものへのアクセスを保障する社会でも、生産性を高め、技術を発展させ、必要な防衛力を維持することが求められる。
究極的には、世界全体で文明の恩恵を分かち合い、国家間の争いを減らすという理想も考えられるだろう。
しかし、それを前提にしてしまえば、今ある問題を解決することはできない。
国家間の競争が続く現実を認めながら、それでも成立する制度を考えなければならない。
文明は誰のものなのか

ここまで考えて、私は改めて思う。
人間が文明の恩恵を受けるために、生存をかけて働き続けなければならないのだろうか。
人間には好奇心がある。
創造する喜びがある。
自分から挑戦したいという意欲がある。
それでも足りない部分は、報酬や技術、制度によって補う。
もちろん、財源や生産力、公平性、国際競争など、解決しなければならない問題は多い。
しかし、「難しい」という理由だけで考えることをやめれば、社会は変わらない。
私たちは長い歴史の中で、機械や電力、コンピューターを生み出し、今ではAIまで利用するようになった。
これだけ文明が発展したのなら、その恩恵を受ける条件についても、考え直してよいのではないだろうか。
人間は、ただ生きているというだけで、文明の恩恵を受ける権利がある。
私は、そう考えている。
文明は、特定の誰かが一人で作り上げたものではない。
過去から現在まで、数えきれない人々の知識や努力が積み重なって生まれた、人類共通の財産でもある。
ならば、その財産にアクセスする権利を、現在の労働能力や収入だけで決める必要があるのだろうか。
「働かなくても生きてよい」と「働いた人が報われる」は、両立できるのではないか。
前回は、生存しているだけで文明にアクセスする権利について考えた。
今回は、その権利を認めた社会が、どのように文明を維持していけるのかを考えてみた。
まだ答えが出たわけではない。
理想だけでも足りない。現実だけでも前には進めない。
だからこそ、現実の問題を一つずつ考えながら、理想に近づく道を探していきたい。
文明は、すべての人が受け継ぐ財産である。
その恩恵を、生存しているすべての人が享受できる社会を目指して、これからも考え続けたい。
