信じるだけで殺された時代――日本国憲法は、なぜ私たちを守れるのか?

かつて日本には、宗教を信じるだけで、拷問され、命を奪われた人々がいました。
ところが現代でも、外国から来た宗教を、国家への脅威だと考える人々がいます。
私たちは、同じ悲劇を繰り返すのでしょうか。
今回は、キリシタン弾圧の歴史から、日本国憲法と立憲民主主義の意味を考えます。
【第一章:キリシタン弾圧の悲劇】
1549年、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えました。
キリスト教は各地に広まり、多くの日本人がキリシタンとなりました。


しかし、当時のヨーロッパでは、キリスト教の布教と植民地支配が結びつくことがありました。
実際、日本人が海外へ奴隷として売られる問題も起きていました。
豊臣秀吉や江戸幕府がキリスト教を警戒した背景には、外国勢力への不安や、国内の統治秩序を守ろうとする事情がありました。

やがて、キリシタンへの厳しい弾圧が始まります。
踏み絵を踏んで、信仰を捨てれば、生き延びられるかもしれない。

しかし、信仰を捨てることは、神を裏切ることになる。
なぜでしょうか。
新約聖書の「マタイによる福音書」10章33節には、人々の前で自分を否認する者を、イエスも天の父の前で否認する、という教えがあります。
つまり、信仰を否定することは、神との関係や、死後の救いにも関わる重大な問題と考えられてきたのです。

キリスト教には、過ちを犯した人間への赦しという教えもあります。
しかし、信仰を守ることを強く求める教えがあるのも事実です。
自分の意思で信仰を守り抜いた人々もいたでしょう。
一方で、神の罰への恐怖や、家族、信仰共同体からの圧力を感じた人々もいたかもしれません。
本人の自由意思なのか、それとも宗教的な圧力なのか。
その境界は、決して明確ではありません。
そして、多くの人々が拷問され、命を奪われました。
直接の責任は、迫害を行った権力にあります。
しかし、ここで一つの疑問が生まれます。
人間を救うための宗教が、なぜ人間に命を捨てるほどの信仰を求めるのでしょうか。
国家には国家の事情があり、宗教には宗教の理念がある。
しかし、その対立のなかで犠牲になったのは、普通に暮らしていた人々でした。
【第二章:日本国憲法の力】
時代は流れ、1947年、日本国憲法が施行されました。

この憲法には、個人を守るための重要な原則があります。
まず、第13条。
「すべて国民は、個人として尊重される。」
国家や組織の都合だけで、一人ひとりの人間を犠牲にしてはならない。
その考え方の基礎となる条文です。

次に、第19条。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
国家が人々の心の中に入り込み、何を考えるべきかを強制することはできません。

そして、第20条。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」
キリスト教を信じてもよい。
仏教を信じてもよい。
イスラム教を信じてもよい。
もちろん、何も信じなくてもよいのです。
さらに、第20条は、宗教上の儀式や行事への参加を強制されないことも保障しています。
宗教団体が政治上の権力を行使することも禁じています。
信じる自由だけでなく、信じない自由も守る。
国家が宗教を押しつけることを防ぎ、宗教と国家権力の結びつきにも制限を設ける。
日本国憲法には、このような仕組みがあるのです。

【第三章:現代のムスリム侵略論】
ところが現代の日本でも、ムスリムが日本を侵略していると主張する人々がいます。
外国から来た宗教の広がりを、国家への脅威だと考える。
そこには、かつてキリスト教が警戒された時代と似た構図があります。
もちろん、外国勢力による政治的介入や、法律に違反する行為があれば、対処する必要があります。
しかし、宗教を信じること自体は侵略ではありません。
ムスリムにも、信仰の自由があります。
では、宗教上の慣習を理由に、日本の法律を無視できるのでしょうか。
答えは、いいえです。
例えば、子どもの結婚について考えてみましょう。
世界には、宗教や地域の慣習などを背景に、子どもの結婚が行われる社会もあります。
しかし、日本の民法では、婚姻可能年齢は男女とも18歳です。
さらに、日本国憲法第24条は、結婚が当事者の合意に基づくことを定めています。
宗教を理由に、日本で18歳未満の子どもを法律上結婚させることはできません。
本人の意思に反して、結婚を強制することも認められません。
つまり、宗教を信じる自由と、その宗教による強制から個人を守ることは、両立できるのです。

【第四章:宗教団体と政治の問題】
しかし、ここには、もう一つ難しい問題があります。
宗教団体は、多くの信者を持つ組織でもあります。
その信者たちが選挙で投票すれば、政治に大きな影響を与えることがあります。
日本でも、宗教団体を支持母体とする政党が、長年にわたり政権運営に関わってきました。
そして、宗教団体による政治的な支持活動は、それだけで憲法違反になるわけではありません。
信者たちにも、政治参加の自由があるからです。

しかし、憲法そのものが改正される可能性もあります。
日本国憲法第96条は、衆議院と参議院、それぞれの総議員の3分の2以上による発議と、国民投票での承認によって、憲法を改正できると定めています。
つまり、宗教団体が政治的影響力を持ち、憲法改正を目指す勢力の一部になることも考えられます。

では、多数派が憲法を変えれば、少数派の自由を奪ってもよいのでしょうか。
【第五章:民主主義の弱点】
民主主義には、一つの大きな危険があります。
それは、多数派が必ずしも正しいとは限らないことです。
例えば、51%の人々が、残り49%の人々を奴隷のように扱うことに賛成したら、どうなるでしょうか。
多数決だけがすべてなら、そんな決定さえ正当化されかねません。
このような危険は、「多数者の専制」と呼ばれます。

多数決は、物事を決めるための方法です。
しかし、多数決で決まったからといって、何をしてもよいわけではありません。
そこで重要になるのが、「立憲民主主義」という考え方です。
少し難しい言葉ですが、仕組みは単純です。
民主主義とは、国民の意思を政治に反映させる仕組み。
立憲主義とは、憲法によって国家権力を制限し、人々の自由と権利を守る考え方です。
この二つを組み合わせたものが、立憲民主主義です。
つまり、多数決を尊重する。
しかし、多数派であっても、他人の基本的人権を勝手に奪うことはできない。
日本国憲法第18条には、こうあります。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。」
たとえ国会で多数派が賛成しても、人々を奴隷にする法律は、憲法に反します。
多数決にも、越えてはならない一線がある。
それを憲法によって保障しようとするのが、立憲民主主義なのです。

【第六章:バトル・ロワイアルと徴兵制】
私自身、中学生のころ、映画『バトル・ロワイアル』を見て、恐ろしくなったことがあります。
もし、あんな法律が本当にできてしまったら、どうしよう。
しかし、日本には憲法があります。
国家が法律を作れば、国民の命を自由に扱えるというわけではありません。
では、戦争に行くことを強制する法律はどうでしょうか。
実は、日本政府は、徴兵制も憲法上認められないという見解を示しています。
そして重要なのは、これが昔だけの話ではないことです。
2020年2月、安倍内閣は、徴兵制が憲法上許されないという従来の政府見解を再確認しました。
さらに、2024年10月11日。
政府は国会への答弁書で、徴兵制について、現在も従来の考えに変わりはないと明言しました。
憲法第13条や第18条などの趣旨から、平時であっても、有事であっても、国民に兵役を強制する徴兵制は認められないというのです。
つまり、戦争の危険があるからという理由だけで、国民を強制的に兵士にすることは、現在の政府の憲法解釈では許されません。
もちろん、自衛官が法律に基づいて防衛任務に就くこととは、別の問題です。
このように、日本国憲法は、国家が国民に兵役を強制することにも歯止めをかけているのです。
しかし、憲法があれば、将来にわたって絶対に安心というわけでもありません。
憲法は改正される可能性があり、基本的人権を根本から否定する改正が許されるのかについても議論があります。
だからこそ、憲法が何を守ろうとしているのかを、私たち自身が理解する必要があります。
【第七章:憲法は誰のためにあるのか】
憲法に権利が書かれているだけで、すべての問題が解決するわけではありません。
国家権力が暴走しないように監視する。
多数派が少数派の自由を奪わないようにする。
そして、宗教や組織の都合によって、個人が犠牲にならないようにする。
立憲民主主義は、そうした原則を守るための仕組みです。
国家のために、人間が存在するのではありません。
国家は、人間の自由と尊厳を守るために存在するのです。
その原則を、私たちは守り続けられるでしょうか。
【エンディング】
かつては、信じるだけで命を奪われた人たちがいた。
今は、自分で信じるものを選ぶ自由がある。
そして、多数派であっても、少数派の自由を勝手に奪うことはできない。
当たり前のように感じますけど、そこに至るまでには長い歴史があったんですね。


